昭和45年11月08日 夜のご理解



 ちょっとお客さんがあってから、お神酒ががばっときつうなって、も、風呂も入りたくないと言う様なあの感じでした。したらあの、久富先生がまだ風呂入ってないから、親先生お風呂はどうじゃろうかちいよんなさいますよ、て公子さんがいうから、ついでにおふろ入んなはんなら入らして頂こうち言うてから、入らして頂いた。あのお風呂入らして頂いたら又しゃんとしてね、おかげを頂きましたが。あのもう今日は体がきついけん、あのう風呂はご無礼すうち言おうごたる時ですね。
 例えば是学生でいうなら、今日は勉強せんならんばってん、いっちょんしゅうごつなかて言うごたる所をですね、そこんしゅうごつなかちいう所から先を修行と思うて、あの信心あの勉強させて貰うと、はあして良かったと思うね。例えばそのお風呂でもそうです。あすこもういいあたしゃきつかけんで、とこういうとったら、あのその後の言うなら次の御祈念にもち込んで来る気分というものが、有り難いものになって来ないと思うんですよ、ね。一日中有り難い有り難いという事はありません、人間ですから。
 矢張り倦怠という事がある、ね。もう是不思議なんですよね。例えばあの休んどってからなんかでも、もうそのままほうからかしとうごたっ時があるでしょうが。けれどもこんだお顔を洗ってからシャンとすると、こりゃ私しの場合ですけどシャンとすると、もうそんな事はできん。やっぱりちょっとこうきちっとしとかなければいけないね。だから、これがきちっとして来るとね、その実意丁寧神信心がでけてくる。
 だからそのもう今日はいっちょん勉強しゅうごつないなぁと、もう今日はなんかだらっときついなという、そういう所からが私しはその言うなら目の詰まった信心と言うじゃなかろうかと思う、ね。そこん所をすこうし大事にすると、はぁひと押しばして良かったと思う。その心が私は信心だと思うです、ね。
   どうぞ。